今でも時折『時間よ、止まれ!このままの幸福が続きますように』と心の中で思うことがあります。無心で無邪気に野山を駆けるとき、愛されていることを感じる時、愛する人が幸せそうに生きているのを眺める時、自然の美しさの中で癒されている時、ゆったりとした時間の中でしみじみと感謝の気持ちが込み上げてくる時、心地よい風が吹いて通り抜けていく時など、そう思うときがあります。時は川のように、留まることなく流れ、幸福な時間も過ぎ去ってしまうのですが、意図的に幸福感を心に刻み記憶に残しておくと、再生して思い出に浸ることができます。現代は不幸感覚の強い時代に入り、未来に希望が持てない人が増えてきているように思います。自己防衛の心は他人との距離を遠くし、不信感が生まれ孤独や不安を生み出します。危機管理は大切なのですが、不幸感覚を研ぎ澄ませても心身共々しんどくなるばかりで、いいことはありません。本当の自己防衛は、幸せな時間を大切にし、幸せ感覚を拡大する力が必要だと常々思っているのですが、幸せを感じ取る力は積極的な努力がないと維持できないようで、不幸感覚のように瞬時に感じ取るものとは違うようです。しかし、その時に「幸福感が消え去ることを恐れ、今のままで十分だから、どうかこのままでいて欲しい」と思い始めると、今度は苦しみに変わってゆくことを体験します。釈尊が諸行無常を説かれたわけですが、この教えの意味を深く考えていた時、執着の怖さを教えるためだけではなく、ふと「人間を限りなく成長させる大きな愛の力が働いていること」を教えるために、この教えを説かれたのではないかと感じることがありました。例えば、静止した写真を眺め思い出に浸っていると、幸福感が甦って幸せな感覚になるのですが、川下りを楽しむ心境があるように、変化していく景色を楽しみ、川の流れにスリルを感じながら、座礁しないよう危機管理し、動的なる幸福感を味わえることもあるわけです。その幸福感は静止した幸福感と違う、魂の底力を教えてくれる幸福感なのかもしれません。そんなことを思いながら、意識を切り替え自分を励ますことがあります。今までの成功体験、失敗体験、人間関係、考え方など、あまりにとらわれすぎて苦しみを生んでいるのならば、ここは決意して、捨てるべきものは捨て、新しい生活に入っていければ、運命は上向修正されるのかもしれません。